このあいだのブロガーミーティングは、それぞれが運営しているブログの最近、を報告しあったのですけれど、それぞれの皆さんが割りと地に足着いている話をする中、私は、自分の今のブロゲが特に言及したくもない感じなので、それをきっかけとして、私にとってのテキストサイト、というお題でつい、熱く語ってしまったので、ああ、そんなにもいいたいことがあったのだ、と思い、ここにも書き付けておこうと思います。
ネットにずっぽりはまってしまっている皆さんは、何がきっかけでそうなりましたか? といっても、ここ数年で本当にネットと人々、というのは変わったと思います。別に「インターネットが好き」というような概念が必要ないぐらい、普通の生活の中に、インターネットは組み込まれるまでになりました。
が、私が「インターネットすげえ!」と深く深く思い、今でも、「私にとってのインターネットの意味はまだ、ココが大部分占めている」と思う部分があって、その中核が、いわゆるテキストサイト、というジャンルなのです。
あの興奮は今でも思い出す。私はまだクリーム色のマッキントッシュを使っていて、ネットでサイトといえば、失われし古代文字、HTMLをつづり、FTPをあやつり御空にデータを捧げられる選ばれし賢者が運営できるものだったのであります。
まさに憧れ。
私は、当時、こんな風に文字をつづることも、読むことともかけ離れた生活をしている、一介のOL兼風俗嬢だったのであります。そして、インターネットは使っていたものの、特にそうすることともないわな、そんな生活だったのでありますが、まず、「おえ!これは天才が書いたのでは?」というテキストを発見し、そして、そのリンクをたどっていくと、出るわ出るわ!そこには、テキストサイト王国がひろがっていたのであります。私が好きだったテキストサイトの多くは、「トップ」「アバウト」「リンク」等の、ごくシンプルなつくりで、たいてい、そのリンクに、管理人(ああ、この単語も今となっては使いませんね)の好みのサイトが載っていて、自分が好きなサイトのリンクの中には、やはり、すばらしいテキストサイトへつながっていたりしたのです。
画面の見すぎで、ゲロをはきそうになりながら、熱中して読んだものでした。
私が特に好きだったテキストの傾向としては、「おもしろい」「必ずしも事実ではない」ものが多く、個人の生活がかいまみれるというよりは、そこに綴られているテキストの力そのもの、がポイントだったと思います。それは、既存の小説や雑誌では再現できない、インターネットに載っている文章だからこそ生まれたような種類のものでした。私はその新しい文章の快楽に溺れ。幸せだったと、確かにいえる。それに影響されて、自分でも始めて日記を書いたりしていましたよ。HTMLは綴れなかったので、その当時あった、簡易日記サイトで。
私が好きだったサイトの何人かの方は、今、オモコロなどで活躍されており、やはり、私の見る目は確かだった!などと思うしだいであります。本当にすばらしいテキスト力をもった人たちです。
ブロガーミーティングで話したのは、最近は、ちょっとさみしく思う、みたいなことで、なんでかというと、その当時は、まだ、インターネットは、現実とはあまりつながらない、インターネットのみで機能しているところがあるような印象で、その、わけのわからない大海原に、すばらしいテキストが漂流していて、自分はそこにたどり着かせてもらった、すげえ、的な感覚があったのです。ちょっとカーゴカルト的な要素があったのです。すごい感動したテキストのひとつに、ヌ・ギッツィーニがありますが、これは、リアルタイムに読んでいて、本当に感動した。特に、「世界で最も四角いものと、宇宙一かっこいい石を探す旅 / サーバー編」は、インターネットならではの唯一無二の展開に、心底しびれました。
今は、インターネットは、いろんな力が複雑に絡み合う場所になり、いや、昔もそうだったと思うけど、その度合いはやはり深くなっていて、前は、「個人」とうい印象がとてもつよかったものが、フォーマットや出自が「お馴染み」のものになり、または、手が届かない、どこかの方がつくったものになり、それは必ずしも悪いことではないのだけれど、なんだかさみしい。
昔も今も、インターネットは、「公け」みたいなものからはみ出しているものが提供される場所だと思うのだけれど、はじめは個人のおかしな力、で作られたものが、多くの人に見られたり、注目されたりすると、そのあり方ががらっとかわる時がある気がして、それは、あたりまえだし、力を持ったものは、どうしたっても、そういった流れに乗るのはさけられないし、喜ばしいことだともと思うのだけれど、マイノリティーへの偏愛から今だ自由になれない私としては、ちょっと残念な感じです。