Religious life

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この夏、私には、マイライフのヒストリーを書いてみてもいいんじゃない?という、語尾が不確かな感じの宿題が出されている。書いて、読んでもらえる方がいて、それはすごくありがたいことなのだけれど、なかなか書き進めません。今の季節にふさわしい、夏休みの宿題状態。

そのお題のねらいの一つとして、ある人物の心の移り変わりと、セックスワークがどのように絡んできたか、というのがあって、それを書くとなると、どうしても避けて通れないさまざまな心情があって、その中で多くを占めているのが、宗教についてのことで、それをどうやって書いたらいいものやら、つまっているのです。つまっている、具体的には、自分の中に、形成されていった、非常に偏った世界観、それは私の中でものすごく当たり前に育っていったのだけれど、それを書き起こす恐ろしさみたいなものがとても大きい。

「自由になりたい」、漠然としている割には、考えなしに行動に反映してしまう強い気持ちがあるのだけれど、その大もとには、「キリスト教に対する自分が持っているさまざまな気持ちから自由になりたい」というのがあるように思える。今も、「私は神を信じなくていいんだ、よかった」と、とてもほっとすることがしょっちゅうある。

何か特定の宗教を信じている人や信じたことがある人、と、そういった経験がない人には、とても大きな隔たりがある。

宗教は、ものすごく荒唐無稽だ。少し前、宴の席で、「恋愛は、理論や制度から自由になれる可能性をもった領域」というようなことを聞いて、おもしろいな、と思ったのだけれど、そういった意味では、恋愛にもまさると劣らずに、宗教のアナーキーさといったら、ない。

しかし、その荒唐無稽さは、宗教であるがゆえに、特にとがめられることはない。どんな神話を信じていたとしても、その人の良識を疑われることはないし、信じていない人も、主要な宗教に関していえば、「なんでそんなことを信じているの!」と、いちいち驚いたりしない。
いや、私は驚くぐらいのことであると思うのだけれど。

逆に言えば、人は何を信じてもいいんだ、という保証がなされているようで、心強くはある。
そこである。

両親ともクリスチャンで、自身も神様がいる、という前提で生きてきたのだが、ある時点で、私はクリスチャンではない、という選択をした。私にとっては、本当に苦しく、大変な選択だった。選択というか、もうどうしようもなく、そうならざるえなかったのだけれど。

しかし、その離れ方が、「神がいることを否定する」というのであれば、すっきりはっきりしていて、「自由になるんだ、自分は」みたいな妙なアイデンティティにならなかったような気がする。

「神はいるかもしれないが、私は背を向ける」、そういう選択だった。私がキリスト教を離れたのは、「キリスト教の神がいる、いない」というところを問うてではなく、クリスチャンでいることが、あまりにもしんどかったからだ。

そのしんどい理由はいろいろある。クリスチャンでいることで、ひとつの真実をうたがってはならず、そのほかの可能性を想像することができないこと、クリスチャン以外の人や、そのほかの世界の考え方とどうやってつきあっていけばわからないこと、などなど。私には、「こころ平穏にクリスチャンでいる」ことが不可能だった。

なし崩しに離れていって、そしてどうなったかというと、ずいぶん不可解な心情になった。「私は神を知識として知っていたけれど、結局神の愛が理解できなかった」ことに劣等感やら罪悪感が生まれ、神を逆恨みするほど。なんだろう、かつて信じていたものを完全に否定するのが恐ろしかったのか? または、私は、「神がいる世界」「神がいない世界」という枠組みでしか物事を考えることができず、かつ、どちらも否定したくなくて、そうすると、落ち着く先がソコ、だったのか?

そういった、歯切れの悪いやり方で、キリスト教を離れ、キリスト教を信じていないといいつつ、背信の心はある、というおかしなことになった。

そういった経過で、いろんな意味で、自由になった。

もう、なんも守るものなんてありゃしねえ~。なんたって、神に背をむけてるんだからよう~。
自分でやっておきながら、なんだか見捨てられた感もあり。なぜなら、神は万能だから。といった、神への責任転嫁である。が、この見捨てられた感は、同時に大きな力でもあって、「神に見捨てられても大丈夫!」という強がりを証明することが、私にとってはとても大事になった。

そんな、信心することに無縁な人には理解しがたい狭い価値観に囚われて生きてきて、ちょっとこの世界観どうなん?と思いつつも、どうしようもなく自分がそう、というのも散々知っているので、おかしな考えをもった人々に対して「異常だ。理解できない」ということばで片付けられる事象には違和感を感じる。

風俗嬢であることは、私にとって、なりゆきであって、それほどアイデンティティに関係ない。しかし、風俗嬢であることで、「いや~こんな風に生きててもぜんぜん大丈夫っすから!」という風にいえる時がある。そして、たぶん、それを声を大にしていいたいし、いい続けないと、自分がどうかなってしまうほどに、まだ私はとらわれている。そして、ここでの真の意味は、「神に見捨てられても大丈夫!」である。神に見捨てられているという認識は、国家や親に見離されるよりははるかに実害が少ないと思うが、自分の生を肯定的に捕らえることに対して、少なからず影響がある。しかし、「神に見捨てられても大丈夫」とするなら、これほど生きる力を得ることもないと思う。

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このページは、田中課長が2008年8月30日 12:27に書いたブログ記事です。

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