母と快挙
ファミレスで母と。母はずっとしゃべり続け、わたしは生半可な相づちを打つだけではなく、会話の糸口を探していた。が、わざわざそんなことをしているのにも疲れてきて、しかし、私が何もいわないままに、母のいうことをきいていない状態になったら、それこそその場は私にとって耐えられない、むなしいことになる。ので、聞いている状態を維持しつつ、何か手はないかとふらふらと意識を漂わせていると、話題が信仰についてになり、誰々さんとこの息子さんが信仰をもつにいたったことなどを母が話し始めた。マズい。今までのほうが遙かにマシだった、という状態になる。もうこれ以上ココにいてはいけない、ということしか考えられなくなる。
出て行く代わりに、「お母さん、その話をするのをやめてほしい」という。母は、ごめんね、私しゃべりはじめたら、とまらなくなるから、とあやまる。
間をおいて、お母さんがしゃべり続けるのがいやだったんじゃなくて、信仰のことを話すのがいやだった、私はその話をされると、本当に耐えられなくなる病気だから、その話をするのは控えてほしい、と話す。それは、たぶん、自分が信仰を持っていないことに対して、罪悪感があるからじゃいかと思う、と説明する。そんなん罪悪感もたんでもいいのに、じゃあお祈りするし、という。この軽い天真爛漫さを前に、自分の追い詰められる深刻さが馬鹿馬鹿しくもなる。
私はその短い時間の一件で動揺し、疲れ、しかし、少し軽くなる。
家に帰り着き、その辺りの続きの話になんとなくなる。私はやっぱりどうしても信仰を持つことは無理だ、と話す。葬式の時でも、多くの人が、父との別れのために集まってくれているのに、キリスト教会の葬式だから、それに対する礼や感謝の気持ちがわかりにくいものになっていた、私は、それこそ伝えたかったのに、と。クリスチャンの人は、そういうつもりはないだろうけど、どうしても信じることがいいことで、そうでない、理解していない人はよくないんだという印象を与えてて、それはすごいいやだと。最近こころにつかえていたことも話す。教会の人も、父も母も、神には祈るけど、私に、何か話しかけたりしない、アクションをおこさない、おこしたとしても、それは、形式張ったことで、私がそれを見てどう思うか、ということはすっぽり抜けているものばかりを投げかけている、それはそれでありがたいことだとも思うけど、私にとってその気持ちを受け取れないこともとてもつらいし、「神様にいっつも愛子のこと祈っとるで」という、普通だったらよいはずの言葉が、私にはとてつもない苦痛にきこえる、だからそれはおかしなことだとは思うけど、いわないでほしい、と頼む。母は、私が昔いった、「お母さんは私がもっとも嫌いなタイプのクリスチャンだ」というのをとても気にしていて、ずっと心にひっかかっていた、といった。私はそんなことをいったのは忘れていたのだけれど、それは撤回する、といったけど、お母さんは、私馬鹿やでわっからへんで、もっと具体的にいってほしい、といった。それはそうだと思い、私が、前他の人にとっていた、「それはどうかなー」と思えることを話した。
おかしなものだ。私は、ここ一年ぐらいの間に、「もっと人のことを考えた方がいい」ということを私と関わった人何人かにさとされた。それをいわれると、いつも困っていた。が、いわれないよりはいわれた方がいいし、すぐには変えられないけど、変えられないから仕方ない、と開き直っては決していけない、というところでなんとか踏みとどまっていた。その私が、母に向かって「もっと人のことを考えた方がいい」というような同様のことをいっている。
母に、いろいろ不満を持ちながらも、なかなかいえないでいた。それは、今となっては言葉を使い出したら、母より私の方がうまく、その一瞬前まで、母によってギリギリになっていた自分が、母に不満を語り始めたとたん、私が母を追い詰める方になる、という気がしていたからだ。それでは、状況は何もかわらない。役割が交代しただけだ。私は母をやりこめたいのではない。人をやりこめたりするのは、快楽で、そっち側にまわるのはとても簡単だが、それで変わってほしいと願っているところが変わると思えないし、もし変わっても、いい変化になるのはとてもむつかしいと感じる。
私が被害者になったまま、その不満をぶつけるだけの目的だったらうまくいかない。人は非難されるのはいやなのだ。昨日書いた日記で、私の目的は、「母とやりとりすること」というのが意識されていた。やりとりにするには、やっぱりそこに愛がないと駄目、と思う。しかし、愛があるやりとりというのはしようと思ってできるものではない。結果、そうであったな、と振り返られる曖昧なものだ。やりとりというものがなされたな、と感じる背景の、ある一要素でしかない。できるだけ、「アレをしないようにして、コレをするようにする」と、その場その場をみて、表現していくしかない。
なんか出来た。
私がいろいろいって、母はショックを受けたようであったが、受け止めたい、といった。ありがたい。
素直さが重要なのか。率直ではなく。そして相手がそれでもかたくなであっても、素直さをさらにたたみかけるのが重要かもしれない。傷つくのをおそれず、腹をくくれば、傷つくのも傷つけるのも最小ですむ感じ。その時間と場を一緒に出来たことのほうがありがたいと感じられる。
その後、母も気持ちをいろいろ吐露してくれる。母の、父への気持ちをたくさんきく。それは、私にもとても重要だ。ここ数日母の気持ちをちゃんときくこともできなかったが、きける。自分の感じで、これほどまでにきこえてくるニュアンスがちがうのだなあ、と思う。
これはたまにおこること。
またいろいろあるのだろうなあ。
しかし、日常があってこういうことがおこり、一緒に生活することは大事だ、とやっぱり思う。
何度も何度も失敗しているけど、たまにいいこともおこる。希望が持てる。忘れないようにしたい。
